人生の転機と1台のパソコン

今日は温泉の話をお休みして私の人生観について書かせていただきます。
このブログは温泉記事を中心としていますが、私の生い立ちを記録するブログでもありますのでどうかご容赦願います。

さて、皆さんが現在の仕事を選ばれた理由は何だったでしょうか?
私は1台のパソコンとの出会いが人生を大きく左右したのです。

今年の正月ぼんやりした時間を過ごしていると、ふと自分は今何故この仕事に就いているんだろうと考えてしまいました。

考えて見ると私の人生にはいくつかの大きな転機が存在していました。

私は農家の3人姉弟の末っ子、長男として生まれました。
つまり私には二人の姉がおり、男兄弟はいないのです。

当時私の周辺では農家の長男として生まれた者の多くは農業を継いでいました。

しかし父は私に農家を継いでもらいたいという意志はなかったようでした。
当時農家は過酷な労働を強いられる職業だったので、そんな苦労を息子の私にさせたくないという親心だったのだと思います。


●第一の人生転機
それは中学2年の時やってきました。
父が急逝したのです。

当時農家は女手だけで経営するのは大変難しい状況だったのです。
父が亡くなり、残ったのは母、祖母そして姉一人と私でした。

一番上の姉はすでに嫁いでおり家にはいませんでした。

当時、農家の跡を継ぐ者の中には中学卒業後そのまま家業に入る者もいたし進学したとしても農業高校を選択する者も多かったのです。

私も一瞬その事を考えました。

しかし母も父から生前、私に農家を継がせる意志がないことを聞いていたようで母は私に農業高校以外の高校進学を促したのです。

農業の方は取りあえず自分の農地を近所の農家の方に貸し出す事にしました。
つまりそれにより賃借料をいただくのです。

私は高校進学に当たり最初工業高専を選択しました。
父が亡くなりその寂しさを紛らわすために始めた「アマチュア無線」がきっかけでした。
電気、電子関係に興味がわき、授業料も安く技能が身に付き就職に有利だと考えたからです。

当時私の住まいから一番近い国立旭川工業高専を受験しました。
そこそこ自信はありましたが結果は見事「不合格」でした。

この不合格が私の心の中に何か燃えたぎるものを生み出してくれました。
それまでどちらかというと遊びほうけていた私でしたが少し真面目に勉強しようという気になったのでした。
その後高校は普通科に決め進学しました。
普通科を選んだのは特に大学進学を考えていた訳でもなく高校卒業後就職も視野に入れ何となくという感じでした。

田舎の中学校でしたので同じ高校に進学した同級生は私を含め6人でした。

高校時代は部活に没頭する訳でも恋愛に心焦がす訳でもなく(片思いはありましたが)、存在感のない人間だったと振り返ります。
何せ片道1時間以上の遠距離通学でしたので朝夕の通学で疲れきっていました。

高校生活も後半になり将来の進路選択を考え始めました。

母子家庭のため母には負担を掛けたくないと思い、進路として給与をもらいながら就職先が確定している国が所管する職業大学校を考えたのです。

私が候補として考えたのは「気象大学校」「航空保安大学校」「税務大学校」でした。


●第二の人生転機
私は候補の大学校の中から航空管制官になとろうと思い運輸省所管の「航空保安大学校」を選択し受験しました。この大学校は2年間全寮制で勉強しながら航空管制官の資格を取得するものです。
なんと研修期間である2年間給与が支給されるのです。

試験内容は一般的な公務員試験等と違い「記憶力テスト」等もありユニークな内容でした。
お陰様で結構な高倍率でしたが第一次試験に合格できました。

このあと身体測定や面接の第二次試験が待ち受けていました。
聞いた話によると第二次試験は第一次試験と違いほとんど落ちる者がいないと聞いていました。
しかし現実は厳しかったのです。
身体測定の中の視力検査で私は不合格となりました。
航空管制官は裸眼視力が要求されていたのです。
私は高校2年後半から視力が低下し始めていたのです。

航空管制官の道も閉ざされ、就職するか大学へ進学するかの選択を迫られたのです。

母にはこれ以上負担も掛けられず悩んでいると、母は「本州の私立へは行かせられないが北海道内の国公立だったら行かせてあげるよ」と言ってくれたのです。

私はこの言葉に励まされ大学進学を決意し、北海道の地方にある国立大学へ進学しました。
将来北海道内での就職を考慮し土木系の学科を選択しました。

大学へ行ってありがたい制度に出会いました。
私のように母子家庭の世帯で収入が少ない場合は授業料の免除や減免納付制度というのがありました。
当時の我が家は収入が極端に少なかったのでほとんど授業料を納付することもなく通わせていただきました。
でも払ったとしても当時国立大学の授業料は月額3000円でした。

大学生活も後半になりいよいよ就職先を選ぶ時期になってきました。

そん時大学でコンピュータ(大型電子計算機)と出会ったのでした。


●第三の人生転機
土木系の学科でしたのでコンピュータに関しては授業の科目では「電子計算機概論」ぐらいしか勉強していませんでした。

たまたま学科助手の方がコンピュータに詳しい方で授業以外の時間を利用してプログラミング言語のゼミを実施してくれました。

言語は「FORTRAN」です。

何回かのゼミが進む中、簡単なプログラムを作成して実践する事となりました。
と言っても当時は作成したプログラムを記述した紙(コーディングシート)を持参して電算室にあるパンチ室へ向かいます。

つまり今のパソコンのようにCRTを見ながらキーボードでプログラムを直接入力する訳ではなかったのです。
「パンチカード」と言われるカードに穴をあけるのです。

簡単なプログラムの場合、パンチカードは数十枚程度ですが、複雑なプログラムになると数百枚以上になる事も珍しくありません。

パンチカード穿孔が終わるといよいよプログラム受付にカードを申込書を添え提出します。
申込書には教官の捺印が必要でした。
これは学生が勝手にプライベートに利用する事を禁止していたためです。

受付後早い時で10分程度で結果がでますが、混雑している時は数時間待たされることもありました。
結果は電算室にある返却棚に置かれていました。

私はこのプログミングに夢中になり、ゼミ期間中機会あるごとに自分で作成したプログラムを実行したのでした。

でもプログラムにバグは付き物です。
どこか1ヵ所でも間違いがあるとエラーとなります。

パンチカード受付後わくわくしながら返却棚へ結果を取りに行きます。
結果が思い通りだった場合は何とも爽快な気分だった事を覚えています。

しかし、バグがあった場合はエラーを示す紙切れ1枚が返却されてきます。
この時はさすがにガックリした気分にさせられました。

今の時代のようにプログラミングした内容が即座に実行でき、そしてバグがあった場合もその場で何度でも修正できるのは当時としては夢物語でした。

でもこの時私はコンピュータの魅力に深く吸い込まれていました。


私は大学卒業後北海道内の道路舗装会社に勤務しました。

この時自分がコンピュータに関連した職業に将来就くとは思ってもいませんでした。

でもこの2年後私の将来を大きく揺るがすコンピュータ(パソコン)に出会ったのです。

そのパソコンとは1979年(S54)9月NECから発売になった「PC-8001」です。

●NEC PC-8001
http://ja.wikipedia.org/wiki/PC-8001

舗装会社入社2年目の冬のボーナスで買ったしまいました。

実は今も我が家に保存されています。

PC-8001本体


↑【NEC PC-8001】

久々に今回の撮影のため箱から出して見ました。

これがパソコン本体です。
キーボードと一体になっています。

本体価格は168,000円でした。
この価格は当時の1ヶ月分の給与に匹敵する値段でした。
今思えばよく買ったと思います。

本体以外はすべてオプション販売です。

PC-8001-CRT


↑【PC-8001+CRT】

当然本体だけでは仕事ができません。
最低限CRTが必要です。

そんな訳で私はグリーンCRTを買いました。
カラーCRTは高くて手が出ませんでした。

それと後日フロッピィディスク装置も発売になりましたが高くてこれも手が出ませんでした。


それではどうやってプログラミングやデータを記憶させていたかと言うと、当時を物語る写真が出てきました。

そうなんです、テープレコーダが記憶媒体だったのです。

01_道路工業仕事


↑【25年前の筆者】

筆者が現場事務所で作業している風景です。
25年の歳月を感じます。

今思い起こすと何の仕事に利用していたのかハッキリとは思い出せません。
ただ、当時「あみだくじ」のプログラムを作った記憶があります。

今考えるとよくもそんな環境でパソコンを使用していたもんだと笑ってしまいます。

さて舗装会社に勤務して3年目を迎えた頃、母も体が弱り同居していた姉も嫁ぎ一人になってしまいました。
同居していた祖母は札幌市内に住んでいた叔母の家に移っていました。

舗装会社勤務は北海道内全域を渡り歩くため毎日自宅からの通勤は不可能です。

私は体の弱ってきた母が心配となり転職を決意しました。

舗装会社勤務の3年後私は札幌市内にある土木設計コンサルタント会社へ就職したのです。

しかし転職した設計コンサルタント会社にも波乱が待っていました。
私が入社4年後経営危機に陥り私は退職を余儀なくされたのです。

この時30歳、私は大いに悩みました。
またどこかの会社へ就職するか、はたまた独立するか。

私は設計コンサルタント会社時代に知り合ったコンピュータ会社の社長がいました。
その社長は「30歳だったら独立して失敗してもやり直せる年齢だよ」と助言してくれました。

この言葉を聞き私は独立を決意したのです。


●第四の人生転機
独立にあたりやる仕事はコンピュータ関連、それもソフト開発が良いのではと考えました。

ソフト開発と言ってもジャンルが広いため今後の営業を考え、知り合いの多い建設業を主たる顧客先と考えたのです。

当時は建設業も景気が良く、またパソコン普及が著しい時でもあり業務用ソフトは会社ごとにカスタム作成している時代でした。

私が元土木屋という事もあり、舗装関連のソフトはお陰様で高い評価をいただき多くのお客様にご利用いただきました。

当時はNEC9800シリーズ用MS-DOS用ソフトでした。

私が独立して10年、パソコン業界に大きな変革の波が訪れました。
Windows95の登場です。
なんと同一OS上でのソフトに互換性があるのです。

つまりWindows用にソフト開発すれば基本的にWindowsを採用するどのメーカー製パソコンでも動作するのです。

従ってソフト開発は大量生産時代に突入しソフト価格は大きく下落しました。
ユーザーにとっては大変利用しやすい世界となりましたが、カスタムソフトを主としてきた会社にとっては大きな打撃となりました。

当社も例に漏れずその影響を受けました。

しかし当社が生き延びているのは専門化された技術及びアイデア志向です。
独自性と機能性(生産性)が評価される事により、厳しい競争に勝ち残る事ができる力を身をもって体験しました。

企業経営者として一番難しいと感じた事は、自社の技術力が全国的に見てどのポジションに位置し、どの分野に活かされるかを的確に判断できているかという点です。

ソフト業界ではその経済効果は顕著に表れてきます。
ソフト導入効果で、「安い」、「早い」、「便利」、「優越性」が達成されたかという点が主たるキーワードと私は感じています。

この「優越性」も最近では重要です。
たとえば携帯電話の料金等の複雑なサービス体系を実現しているのもコンピュータソフトのなせる技なのです。


皆様の業界ではいかがでしょうか。

私が建設業時代には全く見聞きする事のなかった世界がソフト業界でした。

現在はインターネットやブログ等の活用によりリアルタイムに情報が入ってきます。
活かすも殺すも当人次第です。

現在当社では、ソフトウェア部門で「特化された専用システム開発」と「そのメンテナンス業務」をそして「建設CALS/EC業務」という分野で仕事をしています。
「特化された専用システム開発」には専用ハードウェアの開発に付帯する独自性の高いソフト開発が当社の売りです。
最近のWindowsの世界では当たり前になりましたが「毛筆フォント」に関連したシステム開発・販売も継続しています。

特に「のし紙印刷システム」は当社創立以来全国のデパート、スーパー、贈答品店でご愛用いただいている当社のヒット商品となっています。

この「毛筆フォント」に関連して、札幌市に対し地域貢献した話しがありますので次回以降記事に書きたいと思います。


しかし、この先私には「第五の人生転機」が待っているかもしれません。


さて、先ほどのPC-8001の話しに戻りますが、今回撮影のため納戸から出して来ると女房が「いつそれ捨てるの?」と一言。

そりゃぁ、女房にすればゴミにしか見えないただの箱も私にとっては大切な思い出が詰まった宝の箱なのです。


でも、私がこの世界から離れる時が来れば思いっきり捨ててしまいたいと思います。

女房には「今はパソコンリサイクル法があるから勝手に捨てられないんだぞ」と言ってまた納戸にしまう私でした。

私にとってこの1台のパソコンは私の人生そのものなのかもしれません。

私はこれから社会へ飛び出す学生や新人社員を含めた後輩諸氏に申し上げたい事がございます。

これからの人生何が起こるかわかりません。

私の51年間の人生経験からアドバイスできる事は「好きな事にはとことん没頭せよ!」です。
たとえ遊びの世界であっても何事も中途半端はいけません。
そんな事を思ったからこそ私は第4の人生転機では夢中になって全国行脚と温泉歩きをしたのかも知れません。
そこに芽生えるプロ意識(専門的知識)は将来の職業観に大いに役立つはずです。
そしてそこに経済観念を加えて下さい。
それができればあなたはもう一人前です。
失敗を恐れず前向きに進んで下さい。


ところで皆さんの人生に影響を与えたものは何でしょうか?


大変長い記事になってしましましたが最後までお読みいただきありがとうございました。

それでは。


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この記事へのコメント

  • nikumaru

    私は以前「自分の人生」を語ってしまったので、あえて多くは書きませんが、自分の好きなことを生業とできたのは幸せなことだと思います。
    (もちろん、苦労もあった事だと思いますが)
    ただ、自分を振り返って、影響を与えたもの、好きな事、を考えてみると、あまり無いのかも知れません・・・。
    寂しい仕事人間だったかもしれません・・(笑)
    2007年01月12日 19:56
  • nikumaru

    ↑の文を読み返すと変ですね。
    好きなことを生業とできた自分というのは「温泉マンさん」のことです。
    影響を与えたもの、好きな事、が無い寂しい自分は「私」のことです。
    2007年01月12日 20:02
  • 温泉マン

    ●nikumaruさん
    私はブログで自分の生い立ち記録を残したいと思い書いて見ました。
    自分としては案外好き勝手な事をしながら歩いて来た人生だと思っています。
    後悔することは無いわけではありませんがこれが私に与えられた人生だと思って楽しむ事にしています。
    でもブログ始めてから、なおさら自分の人生が楽しくなったのは事実です。
    これかもよろしくお願いします。
    2007年01月12日 22:55
  • ujimax

    温泉マンさんと初めて会った時の事をよく覚えています。
    プログラムをする土建屋と言うことで私に興味を持ってくれたのでしょう。
    プログラミングは誰に教わることなどできなく全てが独学であるということを理解してくれる人だとすぐにわかりました。そして人との出会いをとても大切にする人だとも思っています。

    温泉マンさんほどの苦労はしていませんが私もいろいろと人生の転機を楽しんできました。そして、温泉マンさんとの出会いも私の人生に影響を与えてくれた一つです。

    2007年01月13日 01:43
  • 温泉マン

    ●ujimaxさん
    コメントいただきありがとうございます。
    私も今の仕事をしていてujimaxさんとの出会いは良い意味で大きな影響になっています。
    独学でプログラミングを修得された方はその後の変化の対応に差があることを私は過去に身を持って体験しています。
    そういう方って本当に心底信頼のおける人だと私は確信しています。
    これからも何かとお世話になりますがよろしくお願いいたします。

    2007年01月13日 01:50
  • もぐら

    私も転機は有りましたが、はて?この転機とはなんぞや?と悩んでいます。
    今からやりたいことはたくさん有りますが、今にたどり着くまでの自分の気持ちは考えたことはありませんね。
    (まだ早いのかも)
    私も、20代のころ、ポケコンで測量プログラムを考えていたら夜も眠れいことがありました。クロソイドやトンネル測量のプログラムは未だに前会社で使われています。
    2007年01月14日 00:59
  • 温泉マン

    ●もぐらさん
    ポケコンでプログラム作られていた事があるのですね。
    プログラムを組めると言うことは測量の手計算が完璧にできる人でないとできない事ですよね。
    現在はそれなりのソフトにデータを入力すれば結果がでるので手計算ができない技術者も多いかもしれませんね。
    2007年01月14日 01:25
  • カルゴン

    私は特に自慢できるようなキャリアは何ひとつとして持ってはおりませんが、今自分がここにいるのは温泉マンさんとの出会いがすべてだと思っております。
    紆余曲折を何度もしてきた自分としては本当に感謝しております。
    環境が変わり、時代が変わっても、温泉マンさんとの出会いを大切にしていきたいです。

    好きなことに没頭せよ!ですね。
    これからもお互い頑張っていきましょう。
    2007年01月15日 11:05
  • 温泉マン

    ●カルゴンさん
    私も独立した時一番身に浸みたのは人との繋がりのありがたさです。
    私にとってもカルゴンさんとの出会いが今日の私の支えになっています。
    これからも本当によろしくお願いします。
    2007年01月15日 11:22
  • どぼん

    私は、PC-9801U2を買ったのが転機でしょうか。一太郎Ver4の頃です。
    パソコン通信がしたかったから買いました。ドットプリンターも買いました。
    購入先は秋葉原の端にある問屋でした。
    そこで、Niftyのフォーラムにはまりました。友達が増え、オフ会を東京、大阪などでやりました。あのパソコンはいつ処分してしまったのでしょうか、なぜ捨ててしまったのでしょうか。この記事に触れ、なんだかもったいないことをしてしまったように思えてなりません。
    2007年01月16日 13:47
  • 温泉マン

    ●どぼんさん
    どぼんさんにも思い出の1台があったのですね。
    でも捨てられたとのこと・・・・
    もったいない事をしましたね。

    パソコ通信で思い出しましたが、当時「COARA通信」視察のため大分県まで行った事を思い出しました。
    時代の急速な移り変わりを感じています。
    2007年01月16日 15:27
  • カルゴン

    私が初めて購入したパソコンは、NECPC6001です。で、次に買ったのが日立のBASICMASTERlebel3mark5という奴。
    この時にPC8001を買っていればその後の人生は変わっていたのかも・・
    いずれももう捨ててしまいました。
    残しておけば良かったなぁ・・
    2007年01月16日 17:27
  • 温泉マン

    ●カルゴンさん
    いやぁ~、カルゴンにも思い出の1台があったのですね。
    懐かしい機種の名前を久々に聞きました。
    このころパソコン買った人はソフトが十分でなかったので自作していましたね。
    でも思い出の1台が捨てられてしまったのは残念です。
    我が家は納戸の奥に隠して?おいたので何とか現存できました。

    2007年01月17日 00:13

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IT企業と地域貢献
Excerpt: 昨年の記事で「毛筆フォント」を利用した「のし紙印刷システム」の話しがでましたので、ちょっと温泉の話しをお休みし地域貢献の話しを書きたいと思います。
Weblog: 北海道人の独り言
Tracked: 2008-11-25 00:42